(第五話)


熊野古道とわが町

 阪南町の時代に町が編纂した町史によるとわが町は、熊野詣での道中にあり、紀州の国府が山中渓から雄山峠を南に下った今のJR紀伊駅の東にあった。山中渓から雄山峠越えが至近であり、その峠の麓の集落として賑わったとある。それは平安時代の後期、白河上皇の院政期に入り爆発的に流行した「蟻の熊野詣で」と言われる熊野の聖地信仰への人の往来で賑わったものと考えられる。以後鎌倉時代の亀山上皇までの約200年間、白河上皇9度、鳥羽上皇21度、後白河上皇はほとんど毎年のように34度の御幸があったとの記録がある。上皇には女院も同行され、供奉の公卿や主だった人達で百人から百数十人を超す行列が度々山中渓の街を通ったとは今ではちょっと想像もつかない光景である。
 一行は京から淀川を船で下り浪速に出て堺からほぼJR阪和線に沿って南下し紀伊にぬけた。その街道は熊野街道とか、紀州街道と呼ばれるが、江戸時代にこの道を通り熊野で湯治したという常陸国の豪族小栗判官の伝説が浄瑠璃や歌舞伎で有名となって「小栗街道」とも呼ばれるようになった。
 街道の要所には王子が設けられ神社、寺や小祠があり休憩所や宿泊施設のある所もあり、山中渓には 地蔵堂王子と馬目王子もあったが今は遺跡をしめす案内板だけで寂しい限りである。
 上皇や公家の熊野詣では鎌倉時代にはすたれてしまうが、こうした公家社会にかわり登場したのが庶民の熊野信仰である。
 先達さんに引率された庶民の群れが通りはじめ、南北朝時代にはこの山中宿に関所が置かれた。この関所の門が、このほど国の登録文化財建造物に指定された自然田の南家住宅の門として移設されたと伝えられ現存している。