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鳥取池の決壊

今から56年前の昭和27年7月10日午前0時頃農業灌漑用の溜池だった鳥取池が決壊し、土石流となって下流谷間の桑畑地区を一瞬のうちに呑み込んでしまった。
当時の桑畑地区は戸数50戸人口百175人の小村で、このうち死者51人、流失家屋20戸、半壊10戸、田畑の流出14町歩(1400アール)といった大災害が起こった。
この年は7月に入り雨の日が続き、当日から11日にかけての日雨量は403ミリという大阪気象台始まって以来の記録的大雨となり、各地の溜池が溢れ市内のすべての川が氾濫し鳥取池以外にも体育館近くの蓮池が決壊したり、金熊寺川と兎砥川の合流地点あたりの堤防が決壊し南海電車の線路敷が流されレールが宙つりになるなど市内各所が惨憺たる有り様となった。
当時私は消防団員として連日行方不明者の捜索や災害復旧にあたり、十数日たってからも海にまで流され死亡した遺体の収容をしたことが忘れられません。
この他にも市内各所では本紙面だけでは伝えきれない程の大災害となった。
鳥取池は戦時中食糧増産のため昭和19年に着工し同23年に完成したもので戦争中の資材や人手不足から我々子供まで勤労奉仕の名目でハンマー片手に砕石に従事させられ、その土を積み重ねただけの堰堤を急造したことからこの大雨でひとたまりもなく決壊したといわれて、村内に過激分子が入り責任者への追求で一時騒然となった事件もあった。
市内には鳥取川、山中川、兎砥川、金熊寺川がありいずれも流域の短い急流で、今では川底が見えないくらい雑草が生い茂っているが私が子供の頃は水量も多く清流で夏にはこの川で泳いだり魚釣りをしたくらいであった。
でも一旦雨が降ると今と同じで一度に水量が増し洪水となり流域の田畑を襲い被害が出て、明治時代だけでも十数回堤防の決壊があり府からの補助金により多額の村費が支出されたとの記録がある。
現在の鳥取池は決壊した堰堤の約50メートル下流に新しくコンクリート重量式のダムが建設されダム横に水害被害者の名を刻した慰霊碑が建立され、周辺には桜、紅葉も植えられ公園化され季節には大勢の市民で賑わっている。